寺院紹介
1.歴史
浄明院は正式には飯岡山浄明院長福寺といいます。
当山は、聖武天皇の御代(724~749年)に、行基菩薩が浄梵の霊地として、本尊薬師如来を一刀三拝して自ら刻み開創したとされます。
境内の南嶺にある飯岡神社は当山の鎮守で、境内もともにし、浄明院とこの地における仏法興隆を護ってきました。山号ともなっている飯岡山とは、浄明院と飯岡神社にまたがる丘が米粒の形に見えるとして、役行者により名づけられたとされます。
河野氏の厚い庇護を受けて七堂伽藍が整い、北は三本柳、東は御産所、南は高岡まで伽藍が建ち並んだとされる程の威容を誇りました。村内の末寺は100ともいわれましたが、源平合戦以後、再三の兵火で、諸堂・坊舎を失ったとされます。古代・中世のことは具には分かりませんが、以下古文書などから垣間見る伝承は次の通りです。
・延久5年(1073年)に源頼義と越智(河野)親経が再建したとされます。
・弘安4年(1281年)の元寇の折には、当山の西方にあった来津輪港(佐島)より、河野六郎通有以下出陣し、またこの浜に帰り着きました。河野四郎通時の死骸が飯岡に埋められたとされます。
・翌弘安5年(1282年)別府山城主得能(越智)通純が、元寇による味方の軍人の討死者の招魂追悼供養のために伽藍を再建し、寺領100貫を寄進したとされます。
・大永4年(1524年)、河野通直が、山内での狼藉を禁じた制札を三本柳の山門に掲げました。(当時は浄妙院とされます)。
・後奈良天皇の御代(1526~1557年)に灰燼に帰したとされます。
戦乱により河野氏が衰退していく過程で、当山も大火に巻き込まれたり、衰退していったものと思われます。しかし、江戸時代には藩主松平氏の庇護を受けます。松山地区の真言宗寺院としては、石手寺・太山寺・繁多寺とともに中本寺に位置付けられ*、脇坊12ヶ寺、末寺15ヶ寺を有す大寺でした。また準談林格として、僧侶の学問所でもありました。(*松山市史より)
現在の本堂は元禄7年(1694年)に松山藩主松平定直公を大檀那とし、温泉一郡の祈願所として郡をあげ再建されています。また、藩主の祈願寺として祈願料を拝領するなど、浄明院は手厚く保護されてきたことが伺えます。江戸時代の主要な事績は次の通りです。
・元禄6年(1693年)に龍範大阿闍梨が中興。
・元禄7年(1694年)松山藩第4代藩主松平定直が大旦那となり温泉一郡をあげて本堂、庫裏、客殿を再建。
・享保4年(1719年)佐島弁財天、脇侍毘沙門天・大黒天、十五童子像が暴風雨で流出。一体残らず三津浜に流れ着いた像を、松平定直が浄明院に合祀。
・享保17年(1732年)第5代松平定英が清水山(現弁天山、弁天山の名前の由来となる)に弁天堂を再建。僧庵(弁天庵)も建立。
・享保20年(1735年)第6代松平定喬が浄明院に弁天堂修復料として弁天山十二町歩を寄進。
明治維新による神仏分離令により飯岡大明神とも分離され、加えてその後の廃仏毀釈により、弁天山の弁天庵が廃寺(浄明院本堂に祀られ、現在は弁天堂に祀られる)とされ、一部の仏像が焼かれるなどの法難にもあいます。こうした明治維新後や戦後の混乱により寺は小宇となりましたが、それでも村人からは「別府に過ぎたり浄明院」と崇められていました。今日にも馬場・大門・講堂等の旧跡が小字として伝わり、過去の威容が偲ばれます。
近年は、伊予十二薬師霊場第十一番札所(戌年の寺)として、参拝者が増えています。境内は、四季を通じて花々に彩られ、松山市の保存樹木に指定された楠の大木2本がそびえます。牡丹の時期には、特に多くの参拝者で賑わいます。
2.境内案内
①本堂
秘仏ご本尊である平安時代の薬師如来をお祀りする、当山で最も大切なお堂です。元禄7(1694)年、松山藩の第4代藩主松平定直公が大旦那となり、温泉郡一郡をあげて再建されました。組み物などはさらに古い時代のものが使われているようです。入母屋造(いりもやづくり)で、堂の中央部に竿縁(さおふち)天井を張り、その四周を化粧屋根裏(けしょうやねうら)とします。薬師如来は心と体の病を取り除いてくださる仏さまです。
ご本尊薬師如来ご真言 オンコロコロセンダリマトウギソワカ
②護摩堂(大師堂)
不動明王を中尊に、真言宗の宗祖弘法大師空海上人と真言宗中興の祖興教大師覚鑁上人をお祀りしています。平成3年に再建されました。不動明王は大日如来の化身であり使者とされます。救い難い者も力ずくで救うために憤怒の姿をしていますが、これは大きな慈悲を表しているのであり、護摩の本尊となります。護摩法要はこのお堂で厳修されます。
不動明王ご真言 ノウマクサマンダバザラダン センダマカロシャダソワタヤ ウンタラタカンマン
弘法大師ご宝号 南無大師遍照金剛
興教大師ご宝号 南無興教大師
③聖天(歓喜天)・弁天堂
平成4年建立。聖天さまと弁天さまは、本堂からお移りいただきました。
聖天さまは歓喜天とも呼ばれ、インドのガネーシャを起源に持つ仏教の守護神です。人間の体に象の頭をもつ2体の立像が抱擁している姿で表されます。障害を取り除くとともに、夫婦和合・家庭円満・良縁・子宝成就、商売繁盛など現世利益に強いお力を示してくださいます。
弁天さまは弁財天とも呼ばれ、インドのサラスバティーに起源を持つ仏教の守護神です。聖なる河を表象した水の女神で、鎮護国家の戦闘神、芸術・学問の神として崇められます。日本では七福神にも組み込まれ、福徳・財宝を授けてくれる神としても祀られます。
この弁天像はもともと松山藩主が当山西方の佐嶋に祀っていた由緒正しいもので、享保年間に暴風雨で流失した(大黒天・毘沙門天並びに十五童子含め、一体も失うことなく三津の浜に流れ着く)ものを、4代藩主の松平定直公が弁天山に祀り、当山が管理することとなりました。これが現在の弁天山の名前の由来となります。弁財天供養のために弁天山十二町の寄進も受けました。しかし明治の廃仏毀釈で弁天庵は廃寺とされ、当山の本堂に祀られることとなりました。寄進を受けた弁天山の大半は、戦前に当時の丸善石油に売却され、切り崩して海を埋め立てて今の製油所として開発されています。
聖天(歓喜天)ご真言 オンキリクギャクウンソワカ
弁財天ご真言 オンソラソバテイエイソワカ
④十五仏堂
昭和61年建立。初七日の不動明王から三十三回忌の虚空蔵菩薩まで、法事の本尊となる十五体の回忌本尊さまをお祀りしています。十三仏というのが聞き馴染みがありますが、この十三仏に十七回忌の胎蔵界大日如来と二十五回忌の愛染明王を加えて、十五仏でお祀りしています。
各仏さまのご真言は、お堂のそれぞれの仏さまのところに書かれています。
⑤魚籃(ぎょらん)観音堂
昭和62年建立。魚籃観音は中国で観音さまが魚売りの姿をして現れたことに由来して祀られるようになりました。魚を籠(かご)に入れて持たれているお姿が特徴的です。魚籃観音の「籃」も「かご」という意味です。松山市二番町の京風一品料理きよみずの店主 森脇久さんが奉納されました。現在では牡丹まつり法要に合わせ、市内の漁業関係者や飲食店の店主により、魚介類の供養をする法要が行われています。
観音菩薩ご真言 オンアロリキャソワカ
⑥六地蔵堂
平成9年建立。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という我々が輪廻しうる六つの世界を、六道といいます。この六道にいる者を救済するお地蔵さまを、お祀りしています。
地蔵菩薩ご真言 オンカカカビサンマエイソワカ
⑦地蔵堂
昭和28年再建。地蔵菩薩はお釈迦さまが入滅された後、弥勒菩薩が弥勒如来としてこの世に現れるとされるまでの無仏となる56億7千万年の間、六道すべての世界に現れて我々を救ってくれる仏さまです。子供を守ってくれる仏さまとしても信仰されます。三津の故瀬村氏の寄進により、建立されました。
地蔵菩薩ご真言 オンカカカビサンマエイソワカ
⑧虚空蔵堂
明治8年再建。虚空蔵菩薩は広大な宇宙のような無限の智慧と慈悲を持った菩薩で智慧や記憶を授けてくださるとともに、福徳を司る仏さまです。
虚空蔵菩薩ご真言 オンバザラアラタンノウオンタラクソワカ
⑨飯岡大明神
飯岡大明神は当山の鎮守で、当山とこの地の仏宝興隆を守護してきました。もとは境内を共にし、当山が別当として飯岡神社を管理してきましたが、明治維新によって境内も管理も分断されてしまします。そこで平成●年に社を建て、飯岡大明神を勧請し、当山山内にて再び当山と仏法興隆を護ってもらっています。平成31年の牡丹まつりからは、飯岡大明神の宮司様にもご出仕いただき、神仏習合した画期的な法要を厳修しています。仏と神が一体となって人々を護り導いてきた、古来の信仰を呼び覚ますような貴重な機会となっています。
⑩鐘楼堂
昭和55年建立。毎日朝夕6時に鐘を撞いています。梵鐘の音は時報であるとともに、大日如来の音声とされます。朝の音は、一日の初めに当たり、皆さまを激励し一日の無事を祈るもの、夕の音は、一日の活動をねぎらい心と体をしっかり休めるよう促すものです。ご参拝の方も、自由に撞くことができます。ただ鐘の音は、撞く人の心の状態を表しているとともに、聴く方の心にも大きな影響を与えます。大日如来の音声と思い、鐘の音を聴く自分のために、また多くの人のために、適切な音でお撞きください。
⑪山門
平成14年再建。阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士を安置し、山内に悪いものが入るのを防いでいます。山内への入り口に相応しい堂々とした門で、長谷型灯篭と相まって美しく景色に溶け込んでいます。
3.主な文化財
数多くの文化財が伝わりますが、年紀のあるものや概ね専門家の見方が共通するもので、中世以前のものを中心にご案内します。
① 建造物
・本堂 元禄7(1694)年 大旦那 松平定直公
・本尊厨子 元禄7(1694)年 大旦那 松平定直公
・宝塔 鎌倉時代中期
② 彫刻
・秘仏本尊薬師如来坐像 平安時代前期末頃(10世紀末~11世紀中頃)
・十二神将立像 鎌倉又は室町時代後期
・十一面観音立像 平安時代
・不動明王立像 平安時代又は中世
・毘沙門天立像 平安時代又は中世
・地蔵菩薩立像 平安時代
・銅造釈迦誕生仏 室町時代
・佐島弁財天、脇侍毘沙門天・大黒天、十五童子像 江戸時代 松平定直公奉納
③ 絵画
・絹本著色雙林涅槃像 永禄元(1558)年
・絹本著色両部曼荼羅 室町時代
・絹本著色五大明王図 南北朝~室町時代
その他絹本著色愛染明王像など、中世仏画多数
④ 工芸品
・華鬘一対 木製彩色 室町時代
・鰐口(わにぐち)元禄7(1694)年
・木製羯磨並びに輪宝 室町時代
⑤ 歴史資料・書跡
・河野通直公制札 大永4(1524)年
・本堂棟札 元禄7(1694)年 大旦那 松平定直公
・萬山大休和尚「医王殿」扁額 元禄9(1696)年
・雪广禅師「弁財天」扁額
⑥ 保存樹木
境内には、楠の大樹が2本聳え立ちます。それぞれ推定樹齢300年と400年として、ともに昭和52
年に松山市の保存樹木に指定されています。指定から既に40年以上経ちますので、それぞれ推定樹齢は加算されるということでしょう。
東京江戸川区の善養寺 故名取盛雄大僧正はこの2本の大楠を、当山ご詠歌の中で、ご本尊薬師如来に仕える日光・月光両菩薩と詠い讃えました。
4.花の寺
浄明院では、一年中何かしらの花を愛でていただけるように心掛けています。約1000株にものぼる牡丹に比べ、それらは数も少なく木も大きくないため、牡丹ほどのインパクトはありません。しかし、それぞれに個性的で美しく、時々に境内を彩り私たちを和ませてくれます。
当山では、境内の花々(樹木も含め)は、仏さまへのお供えであるとともに、参拝者の方々を楽しませ、心を清めるためのものとの想いで育てています。是非四季折々にご参拝され、花々も楽しんでいただきたいと思います。
境内の主な植物をご紹介します。
1月 山茶花、椿、寒牡丹、水仙、蠟梅、紅梅、クリスマスローズ、ノースポール、千両(実)、
万両(実)、南天(実)、ボケ
2月 山茶花、椿、寒牡丹、水仙、蠟梅、紅梅、しだれ梅、マンサク、柊南天、クリスマスローズ、ノースポール、万両(実)、ボケ
3月 椿、寒牡丹、水仙、白梅、さくらんぼ(花)、トキワマンサク、鈴蘭、雪柳、コブシ、
彼岸桜、乳母桜、白木蓮、レンギョウ、もみじ芽吹き、躑躅(三葉・吉野)、柊南天、
ギョリュウバイ、ボケ、フリージア、クリスマスローズ、ノースポール
4月 牡丹、花桃、藤、椿、黄木蓮、コブシ、ボケ、キングサリ、姫林檎、カリン、レンギョウ、山吹、雪柳、桜(早:ソメイヨシノ、遅:松月・天の川)、躑躅(三葉・吉野・黒船・久留米・ドウダン・蓮華)、雲南萩、もみじ芽吹き、フリージア、ジャーマンアイリス、オダマキ、大手毬、小手毬、テッセン、クレマチス、鯛釣草、ギョリュウバイ、錦木、ノースポール
5月 牡丹、芍薬、つつじ、黄モクレン、大楠(若葉・花)、フリージア、ジャーマンアイリス、
サツキ、紫蘭、文目、睡蓮、山法師、カルミア、雪ノ下、シャリンバイ、花菖蒲、クレマチス、カラー、鯛釣草、ギョリュウバイ、ノースポール
6月 花菖蒲、紫陽花、蛍袋、泰山木、シモツケ、夏椿、柘榴、蓮、睡蓮、月下美人、孔雀サボテン、百合、萩、桔梗、合歓の木、梔子、夾竹桃、アガパンパス、クレマチス、レインリリー、グラジオラス
7月 蓮、睡蓮、禊萩、はまゆう、百日紅、紫陽花、夾竹桃、シモツケ、百合、柘榴、萩、桔梗、合歓の木、梔子、アガパンサス、木槿、月下美人、孔雀サボテン、ダリア、レインリリー、クレマチス、ブータンルリマツリ
8月 蓮、睡蓮、芙蓉、禊萩、朝顔、はまゆう、百日紅、百合、萩、夾竹桃、木槿、ダリア、
レインリリー、鶏頭、ブータンルリマツリ
9月 彼岸花、睡蓮、芙蓉、鶏頭、ホトトギス、朝顔、はまゆう、百日紅、秋桜、夾竹桃、木槿、ダリア、鶏頭、萩、ブータンルリマツリ
10月 金木犀、睡蓮、茶、石蕗、菊、秋明菊、鶏頭、ホトトギス、秋桜、萩、ダリア
11月 山茶花、椿、寒牡丹、茶、石蕗、菊、鶏頭、秋桜、秋明菊、ダイヤモンドリリー、八手
12月 山茶花、椿、寒牡丹、水仙、ボケ、菊
5.臨床仏教師のいるお寺
当山副住職の森脇宥海は、全国にも数少ない臨床仏教師の有資格者です。
臨床仏教師とは、臨床仏教研究所が認定する資格で、人生の生老病死にまつわる現代社会の苦悩と向き合い、専門的な知識や実践経験をもとに行動する仏教者です。
(臨床仏教研究所は、現代社会において僧侶や仏教者が果たすべき役割について研究し、活動者の養成に取り組む全国青少年教化協議会の付属機関です。また全国青少年教化協議会は、60余りの仏教教団・宗派と関連企業が協力して、青少年の豊かな生活と未来を願い設立認可された公益財団法人です。)
臨床仏教師は、仏さま(仏教)の慈悲や平等といった智慧を背景に活動し、その活動は、布教や収益を目的とするものではありません。法話のように一方的に情報を発信するのではなく、相手の方の苦悩、想い、価値観などに寄り添うこと(傾聴)が中心となります。
今日、人々と寺院・僧侶との付き合いは、死を迎えてから始まる傾向にあります。
しかし、仏教は本来生きるための智慧であり、従来の僧侶は生まれてから亡くなるまでの様々な苦に向き合ってきました。臨床仏教師の活動は、葬式仏教と揶揄される今日の僧侶の活動から、原点回帰を目指すものといえます。このことは葬儀や法事を否定しているのではありません。葬儀や法事も大切なお勤めですし、その他にも求められていることがあると考えています。)
現在臨床仏教師としての活動は、病院や施設に出向いて行っていますが、お寺で面談してお話をしたい方がいらっしゃいましたら、個別に対応させていただきます。遠慮なくお声掛けください。